山口県大津郡三隅町(現在の長門市)出身の洋画家・香月泰男(かづきやすお)をご存じでしょうか。

昭和を代表する洋画家のひとりで、シベリア抑留の経験から代表作「シベリア・シリーズ」を描いたことで知られる人物です。

戦争とシベリア抑留のほか、生涯においてほぼ故郷を離れることなく、愛する長門の地で創作活動を続けました。

つぶた
つぶた
そうなんだね! どんな人物でどんな作品を残したのかな?
県内でもその名はあまり知られていないかもしれないわね…
なんたん
なんたん
この記事では、香月泰男の略歴や代表作「シベリア・シリーズ」、名言についてご紹介します。

香月泰男とは?略歴を紹介

孤独な幼少期

 1911年(明治44年)10月25日、大津郡三隅町に生まれました。

香月家は代々医者の家系で、父も医者になるべく学んでいましたが、泰男が4歳の時に出奔。母は義父母との関係がうまくいかず、泰男が10歳の頃、家を出てしまいます。

両親が家を出てしまったため、泰男は厳格な祖父母によって育てられ、とても孤独な幼少期を過ごしました

そんな泰男にとって、大好きな絵を描くことだけが心をの支えでした

どうしても、どんなことをしてでも絵を描きたい。
そんな思いから、徒歩で往復5時間かけて12色クレヨンを手に入れたり、祖父の財布からお金を抜き取って水彩絵の具を買って、ひどく責められたり。また、家を出た母に手紙を書いて、油絵の具を送ってもらったりしたのです。

そうして、画家になりたいという決心を固めていきました。

つぶた
つぶた
絵とは反対に学校は嫌いだったようで、中学校ではよく教室を抜け出して家に帰っていたそうです
1929年(昭和4年)、東京美術学校を受験しますが、不合格。上京して川端画学校に通い、2浪の末、東京美術学校の西洋画科に入学します。

苦労して入学したものの、指導教官の一方的な指導法に反発し、教室を出ていくほどだったそうです。一人で絵の勉強をつづけた泰男でしたが、卒業制作『二人座像』は教官の目にもとまり、よい成績を収めました。

なんたん
なんたん
ゴッホ、梅原龍三郎、ピカソなどから影響を受け、その中で自分の画風を模索したとのことです

(昭和9年の作品)

画家として

東京美術学校卒業後、北海道に美術教師として赴任しますが、1937年(昭和12年)帰郷。
翌年、下関高等女学校に転任し、
同年結婚。3人の子どもに恵まれます。

絵の仕事では「日本人にとって、いかなる油絵を描くことが可能であるか」を関心事とし、洋画と東洋画が融合した「日本的油絵」を探求。

スランプの末、新境地を拓いた『兎』が文部省美術展覧会で特撰を獲得。画家として、本格的な一歩を踏み出しました

温かい家庭と、画家としての評価を得た矢先、泰男の人生は一変します。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争開戦。
泰男にも召集令状が届き、1943年(昭和18年)、満州のハイラルへと派遣されたのです

なんたん
なんたん
満州は現在の中国の一部(東三省)。当時は日本の支配下におかれていました

戦争とシベリア抑留

 泰男は戦地に赴いた際も、帰国するまで絵の具箱を手放しませんでした。

1945年(昭和20年)、日本は敗れ、戦争終結。
帰国できると思ったのもつかの間、泰男たちはそのままシベリア(現在のロシアの一部)のセーヤに抑留され、強制労働を強いられます

なんたん
なんたん
シベリアの冬は-30度、-35度の酷寒。食事も満足にできない中、毎日夜明け前から日暮れまで働かされ、みんなどんどん弱っていったそうです
セーヤでは、火力発電所で使う薪を作るための伐採作業に従事。過酷な労働環境と栄養失調から、多くの死者が出ました。

翌年、セーヤから炭鉱の町チェルノゴスクに移った泰男は、自分が画家であることを申告。ポスター作製や肖像画など、おもに絵を描く仕事を任されます。

そして絵の具箱のふたの裏には、帰国したら描こうと思うモチーフを漢字一文字ずつで書きとめていきました。

つぶた
つぶた
道、葬、月、雨など、12のモチーフ。これらはシベリア・シリーズのキーワードとなりました
ほかの兵とは別に、画家としての目を持ち続けたことで、過酷なシベリアを生き抜くことができたのです。

帰還、画家としての再出発

待ちに待った帰国が決まり、1947年 (昭和22年)、引揚船で舞鶴港に入港。
京都から山陰線で、家族の待つ故郷・長門へたどり着きました。

なんたん
なんたん
帰宅した時、栄養失調で顔がむくんでいて、奥さんはすぐに泰男だとわからなかったそうです
下関高等女学校に復職し、翌年には長門の深川高等女学校(現大津高校)に転任。

次男も生まれ、穏やかな日常を取り戻した泰男は制作を再開し、シベリア抑留中からあたためていたハイラルの風景を描きました。

しかし、以降10年シベリアを封印。
1956年(昭和31年)からふたたびシベリアの風景に取り組み始め、最晩年まで57作を描き続けました

つぶた
つぶた
シベリアでの体験を描いた作品は、シベリア・シリーズとよばれているよ
1969年(昭和44年)、シベリア・シリーズに対して第1回日本芸術大賞が贈られました。


シベリアでの抑留体験を描く一方で、小動物や草花に愛情を注ぎ、空き缶やクギなど捨てられたものでおもちゃ作りなども行っていました。

なんたん
なんたん
故郷や日常をこよなく愛した様子が伝わってきますね
1974年(昭和49年)3月8日、心筋梗塞でこの世を去りました。享年62歳でした。

香月泰男の代表作「シベリア・シリーズ」

「シベリア・シリーズ」は香月泰男の代表作であり、およそ27年にわたるライフワークでした。


帰国翌年1947年(昭和23年)、『雨〈牛〉』を。翌年には『埋葬』を描き、その後10年近くの中断を経て、1974年(昭和49年)の絶筆『渚〈ナホトカ〉』まで、57点の作品を描き、シベリアの記憶を紡ぎ続けました。

シベリア・シリーズの特徴のひとつに人物の「顔」があります

自分の絵における「顔」なしには、シベリア・シリーズを描き進められないと感じた泰男は、自分の「顔」を模索し続けました。

彼が「顔」を獲得するきっかけになったのは、1956年(昭和31年)のヨーロッパ旅行で目にした中世の絵画や彫刻の顔でした。そこに日本美術の要素を取り入れ、シベリア・シリーズの「顔」が描かれたのです。

また、シベリア・シリーズのもうひとつの特徴は「黒」です

1950年代前半には、「厨房の画家」と呼ばれるほど台所のモチーフを明るい色彩で描きますが、次第にその絵は色数の少ないものとなります。

既成の絵の具ではシベリアの黒は表せないと考えた泰男は、試行錯誤の末、独自の絵の具を完成させました。

なんたん
なんたん
シベリアを描くには、新たな画風や様式を作り上げる時間が長く必要だったのですね

シベリア・シリーズは、はじめから連作として描かれたのではありません。

描くたびに「これで終わりにしよう」と思っても、次々に浮かび上がるシベリアの体験を止めることはできず、記憶に向かい合い、描き続けました。

こうして、4年半の戦争と抑留の体験は、その6倍もの年月をかけて描き続けられたのです。

香月泰男の名言

一瞬に一生をかけることもある。一生が一瞬に思えるときがあるだろう。


絵を描くにも、これが絶筆になるかもしれないという心構えで作品に臨むべきだと考えていました。その絵は、一瞬の光や光景の本質を最小限の要素でとらえようとしたものでした。

生きることは、私には絵を描くことでしかない。

 

シベリアを描きながら、私はもう一度シベリアを体験している。私にとってシベリアとは一体何であったのか。


銃を握るのではなく、鉛筆を握って死ぬ、とまで覚悟していた泰男は、召集時に持って出た絵の具箱を、帰国まで手放すことはありませんでした。

戦争中も、帰国後も晩年まで、自らの記憶と向き合い、絵を描き続けた泰男。「生きることは、私には絵を描くことでしかない。それしか自分に納得できる生き方はない。今日は今日の絵を描き、絵具を塗る」と言っています。

私は毎年のことだが、今年も庭の椿を描いている。ただ椿の花の咲いているのが眺められるしあわせのしるしとして描いている。


故郷を離れ、戦争、抑留を体験した泰男にとっては、家の庭に咲く椿を眺めるというあたりまえのことが、大変な幸せとして感じられていたのでしょう。

まとめ

山口県出身の画家・香月泰男をご紹介しました。

長門市三隅で、シベリア抑留の記憶を描き続けた香月泰男。この記事が、その生涯にふれるきっかけになれば幸いです。

山口県立美術館には、香月泰男のコレクション展が展示されています(やまぐちバーチャルミュージアムで、シベリア・シリーズをご覧いただけます)。
また、故郷である長門市三隅には香月泰男美術館があり、作品が展示されています(香月泰男美術館HP)。

機会がありましたら、ぜひお立ち寄りください。

※内容は、『香月泰男』マンガ広中健次/山口新聞、『別冊太陽 香月泰男<私の地球>を描き続けた』を参考にしました。